平成25年7月 園便りより


空梅雨と言われていましたが、やっぱり後半は沢山雨が降りました。
  もも組は絵カードを使ったフルーツバスケット(椅子取りゲームの一種)を楽しみました。

  梅雨の雨音は、しとしとですが、近頃では、ざーざーという音で降るイメージに変わってしまいました。
昨年は日田や竹田は豪雨災害に見舞われ、今年は早々に台風も接近して、梅雨は激しい雨による災害への警戒が必要な期間となりました。やはり地球温暖化の影響でしょうね。
 先月一日は、津久見町立警固屋保育所がセメント町蓮照寺境内に設立されて65回目の記念日でした。  その翌年の4月に町立保育所から個人立の向洋保育園に組織変更し、財団法人・社会福祉法人とその時々の制度に沿って組織改革を行い運営して来ましたが、地域の皆さんのお陰で65年もの期間仕事を続けてこられたと感謝しています。 
 昭和24年といえばまだ戦後の混乱が残っている時期ですが、お寺という地域の願いのこもった場所だからこそ設立することが出来たのだと感じています。当初は境内の倉庫や御堂を使って子ども達を預かっていましたが、お昼ご飯を提供するようになり調理室を作ることになります。津久見町は昭和26年4月に津久見市になり、火葬場などの公共施設の整備を始めることとなり、資金が不足していた向洋保育園は取り壊した古い火葬場の耐火煉瓦をもらい受けて調理室のかまどを作ったと聞いております。お寺の保育園だから火葬場の耐火煉瓦を再利用しても反対意見が出なかったのでしょうね。 
 当時、蓮照寺の長男(前住職)は戦争で死亡したとされ、次男は宮崎へ養子に行ってましたので、三男の私の父(21歳)が園長でした。
 死亡したと誰もが思っていた伯父(蓮照寺前住職)は、ソビエトに抑留されていて、復員したのは戦終何年も経過した後でした。晩年、伯父にソビエト抑留の話を聞くと、カザフスタンで綿摘み労働をさせられていた話をしてくれました。凄い冒険談に聞こえますが、命のかかったぎりぎりの話だったのだと感じます。
 その後、向洋保育園は上青江へ移転し、三度目の場所として現在の中町で運営していますが、向洋が発足した当時の苦労はいろんな制度が充実している現在とは比べものにならず、父や蓮照寺に深く感謝しているところです。
 さて、保育所は昭和22年12月に施行された児童福祉法によって誕生しました。 自ら問題解決の出来ない子ども達の力となる、児童福祉法は社会の良心だと思うのです。 
 共働き家庭の増加や、晩婚化と少子高齢社会、それに社会保障費の増大よる国の財政難… 様々な影響を受け、児童福祉法で定められた保育所も制度変更の荒波が近づいてくるような気がしています。
 都会での保育所不足と小学校の児童数減少による空き教室や、幼稚園の定員割れなど、住民が求めるサービスと実際との隙間が大きくなっています。 定員割れした幼稚園に保育所機能を持たせ、育児疲れや児童虐待防止のため専業主婦世帯の子どもでも保育所へ通える仕組みをと、制度変更が考えられています。
 児童数に対して乳幼児施設の割合が不均等な大都市、津久見のような過疎地、それぞれ制度が変わると大きな混乱が生じないかと心配しています。